デジタル記念館慰安婦問題とアジア女性基金
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 慰安婦問題が明らかになるまで  

  「慰安婦」の存在は、日本でまったく知られていなかったわけではありません。戦争に行った人はある程度知っていたことです。しかし、そのことが社会問題としてとりあげられることはほとんどありませんでした。日本と朝鮮の関係に関心を寄せる人は、1965年ぐらいからこのような人々の存在を知っていて、朝鮮植民地支配がもたらしたもっとも残酷な結果がこの人々にあらわれていると考えていました。しかし、これらの犠牲者はいわば歴史の上の人たちだと考えられていたのです。

 朝鮮では、戦争の末期の1943年に女子勤労挺身隊の募集が始まると、これに応じると「慰安婦」にされるという噂が流れました。総督府がそのような噂は故意に流されたもので、事実無根だと否定すると、いっそう人々はそのことを本当だと考えるようになりました。

 ですから、「慰安婦」という存在は解放後の韓国でも知られていなかったわけではありません。しかし、これはふれたくない問題であったのでしょう。韓国でこの「慰安婦」問題がようやく社会的に取り上げられるようになったのは、1987年の民主化のあとでした。尹貞玉(ユン・ジョンオク)氏の取材記がハンギョレ新聞に発表されたのは、90年1月のことです。日韓の歴史問題、謝罪問題が注目を集めるようになった中で、この問題が浮上しました。

 「慰安婦」問題が一挙に韓国の国民の心を捉えるようになるきっかけは、この年6月6日に参議院予算委員会でなされた次のような日本政府委員の答弁でした。

 従軍慰安婦なるものについて、古い人の話等も総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について私どもとして調査して結果を出すことは、率直に申しましてできかねると思っております。
金学順(キム・ハクスン)  この答弁に対して、韓国では、軍と国家の関与を否定し、調査の可能性を否定したものとして、強い批判が起こりました。90年10月17日韓国の女性団体37団体が挺身隊研究会とともに声明を発表し、日本政府委員の答弁を批判し、「慰安婦」は強制的に連行された存在であることを認めるようにとの要求からはじまる6項目の「要求」を日本政府につきつけたのです。公式謝罪、真相の究明と発表、犠牲者のための慰霊碑の建設、生存者遺族への補償、歴史教育での取り上げが具体的な要求でした。これが年末に日本に伝わり、国会でも再質問がされました。

 決定的であったのは91年夏、犠牲者の一人、金学順(キム・ハクスン)さんがソウルで名乗り出て、日本の責任を告発するにいたったことです。金さんは、この年12月の太平洋戦争被害者の補償要求訴訟に、ただひとり実名を名乗って原告となりました。

 衝撃を受けた日本では、女性たちを中心に運動が急速に広まりました。1992年1月11日吉見義明中央大学教授が北支那派遣軍参謀長岡部直三郎の通牒などを、軍の関与を証明する資料として発表しました。これが強い印象を与えました。

 日本政府も本格的な調査に乗り出しました。政府の調査の結果はまず、第一次分が1992年(平成4年)7月6日に加藤紘一官房長官の発表とともに示されました。
 
 調査結果について…申し上げると、慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所・慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められたということである。
 政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未来に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。
 この問題については、いろいろな方々のお話を聞くにつけ、誠に心の痛む思いがする。このような辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか、各方面の意見も聞きながら、誠意をもって検討していきたいと考えている。


 このときまでに発見された資料は防衛庁70件、外務省52件など、127件でした。これでは調査不十分だという声があがり、政府の認識も批判されました。政府はこの批判をえて、調査を国内でつづけるとともに、海外にも拡大しました。進んだ調査の結果は、1993年8月4日、河野洋平官房長官の談話とともに政府より発表されました。内閣外政審議室は、内外関係機関での資料の調査、国内での関係者からの聞き取り、ソウルでの被害者16人からの聞き取りをまとめて、調査結果を発表しました。防衛庁防衛研究所図書館所蔵資料117点、外務省外交史料館所蔵資料54点、旧厚生省資料4点、旧文部省資料2点、国立公文書館資料21点、国立国会図書館資料17点、米国国立公文書館資料19点の存在が明らかにされました。
 河野官房長官の談話(全文はこちら)は、政府調査によって得られた認識とそれにもとづく判断を、次のように述べています。
 
 慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。
 また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  


 当時の石原信雄官房副長官は、河野談話をとりまとめた経過について次のように証言しています。

石原信雄写真 現地調査をしよう、日本の政府が任命した調査官がソウルへ行って慰安婦の人たちにお会いして、その人たちの話から状況判断、心証をえて、強制的に行かされたかどうかを最終的に判断しようということにしたわけです。・・・各省から何人か、3人ぐらいでしたか、慰安婦の人たち16人にお会いしたんですよ。・・・その報告の内容から、明らかに本人の意に反して連れて行かれた人、それはだまされた人、普通の女子労働者で募集があって行ったところが慰安所に連れて行かれたという人、それからいやだったんだが、朝鮮総督府の巡査が来て、どうしても何人か出してくれと割り当てがあったというので、そういう脅しというか、圧力があって、断れなかったというような人がいた。何人かそういう人がいたので、総合判断として、これは明らかにその意に反して慰安婦とされた人たちが16人のなかにいることは間違いありませんという報告を調査団の諸君から受けたわけです。・・・結局私どもは通達とか指令とかという文書的なもの、強制性を立証するような物的証拠は結局見つけられなかったのですが、実際に慰安婦とされた人たち16人のヒヤリングの結果は、どう考えても、これは作り話じゃない、本人がその意に反して慰安婦にされたことは間違いないということになりましたので、そういうことを念頭において、あの「河野談話」になったわけです。そこのところは結局調査団の報告をベースにして政府として強制性があったと認定したわけです。(アジア女性基金オーラルヒストリー・プロジェクトの聞き取りより、2006年3月7日)(全文はこちら

 河野官房長官の談話は「従軍慰安婦」問題について日本政府が到達した認識と態度を表したものでした。お詫びと反省の気持ちをどのように表すか、それはその後長く議論されていくことになりました。

 この問題が社会的な問題として、大きくクローズアップされるについては、名乗りでた被害者の存在が大きな役割を演じました。2002年11月現在韓国で政府に届け出て認定され登録された犠牲者は207名です。そのうち72名がすでに亡くなっておられます。台湾では登録された方のうち生存しているのは36名といわれています。フィリピン、オランダ、インドネシア、中国、北朝鮮、その他の国々にも名乗り出られた方がおられます。

 いずれにしても多くの人がこの世を去ったか、名乗り出ることをのぞんでおられないのです。名乗り出た方は全体被害者のごく一部であることを忘れてはなりません。

 

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